クレイジー・フォー・ガーシュイン

ガーシュインを笑えなかったクラシック音楽家の面々

ガーシュインの写真今世紀のアメリカの音楽界の父と称されたジョージ・ガーシュイン。彼は1920年代から30年代にかけて兄のアイラの詞とともに数々のポピュラーソングを生み、後に紹介する「ラプソディー・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」や「ポーギーとベス」などクラシックの領域にまで踏み込んだ名曲を書きあげました。映画監督のウッディ・アレンは彼の作品「マンハッタン」(1979米)の中で「ニューヨークには白黒映画とジョージ・ガーシュインの音楽がふさわしい」と主人公に言わせています。そんなお洒落を感じさせるガーシュインの音楽とそのエピソードを紹介します。ジョージ・ガーシュイン

デビュー前

 ガーシュインは、ニューヨークのブルックリンで仕立職人の息子として生まれました。父は本名をモリス・ゲルショヴィッツトいい、ユダヤ系のロシア人です。兄のアイラ・ガーシュインは、やがてジョージと組んで彼の歌曲の歌詞を書くヒットメーカーとなります。ガーシュインが、音楽家になろうと決心したのは1909年位のまだ10歳になったばかりの頃です。後に彼の友人となるマックス・ローゼンのヴァイオリンを聞いて心を固めたと伝えられています。10代の頃は高校へろくに行かず、ティン・パン・アレーの店頭でピアノばかり弾いていました。ティン・パン・アレーとはマンハッタン28丁目付近に群らがった楽譜出版社街を指し、ブリキ鍋を叩くようにピアノの音がいつも溢れ(名前の由来はここからきています) そこから数々のヒットソングが生まれました。(注:日本にもかつてそのような名前の音楽グループが存在しましたね-答えはこちらを参照)

兄アイラ・ガーシュインティン・パン・アレー時代

ガーシュインもティン・パン・アレー時代に兄のアイラと組んで多くの流行歌を作っています。21歳の時、後にトーキー映画第1号となる「ジャズ・シンガー」の出演者アル・ジョンソンと出会い、「スワニー」を自分に唄わせてもらえないかと依頼を受けます。これが200万枚のレコードセールスを記録する大ヒットなり、ガーシュインはまたたく間に人気作曲家なります。
当時、ガーシュインの才能に注目したもう一人の人物がいました。名曲「ラプソディー・イン・ブルー」の作曲を依頼したポール・ホワイトマンです。彼は自らの楽団でジャズとクラシックの融合を試み、(シンフォニック・ジャズと呼ばれました) 当時、低俗と思われていたジャズ音楽を積極的に演奏しました。ガーシュインはこの依頼された作品の全体スケッチをわずか18日間で終え、当時ホワイトマン楽団の編曲者であったグローフェ(米作曲者)がオーケストレーションを担当し、たった5日間の練習で初演に臨みます。

「ラプソディー・イン・ブルー」の成功

さて、「ラプソディー・イン・ブルー」が初演された歴史的な1924年2月12日。作曲家兼ピアニストのガーシュインは弱冠26歳。ニューヨークのエオリアンホールの「近代音楽の試みの夕べ」に集まったのは、作曲家ストラヴィンスキー、ヴァイオリニスト、ヤンシャ・ハイフェッツ他著名な音楽家、批評家一同と役者が揃いました。実は彼らは、ホワイトマンとガーシュインの試みを物笑いの種にしようと集まったふしがあります。しかし、クラリネットのグリッサンドでけだるく始まるこのピアノ協奏曲は、演奏が始まるともう誰も笑うことができませんでした。ホワイトマンはこの日のことを回想して次のように語っています。「私は、エオリアンホールでの演奏会で、我々が成功したことを知った。聴衆は電気を浴びせられたようになった。( 中略) 批評家連中もいた…一流の人達である。しかも彼らは敵意を見せていなかったばかりか好意を持っているという感じがした。途中で私は泣き始めた。気を取り直した時は、スコアーが11ページも進んでいた。後になってピアノを弾いていたガーシュインは、やはり私と同じ体験をしたと白状している。」ガーシュインはこの夜の成功で、当時のクラシック音楽の作曲家としても第一線にランクされるようになりました。ポール・ホワイトマン楽団

「音楽には、良い音楽と悪い音楽があるだけだ。」

故デューク・エリントン(作曲家、ジャズビックバンド指揮者)が言っています。「音楽には、良い音楽と悪い音楽があるだけだ」と。私たちが仕事をする世界も同じことが言えないでしょうか?
あなたは良い人間?それとも…。

(nao)

Homeへ