大滝詠一「ロング・バケイション」までの軌跡と日本ポップスの勃興期

本名:大滝栄一 1948年7月28日、岩手県江刺市生まれ。
本人曰く、生まれて初めて夢中になった曲がコニー・フランシスの「カラーに口紅」。そして中学に入ってからプレスリーに狂い出す。プレ・ビートルズ期の黄金のようなポップスを浴びるように聞いて音楽の造詣を深めていく。

1963年、中学3年の時、短波放送で偶然聞いたビートルズの「抱きしめたい」に打ちのめされ、一気にリバプール・サウンドへ傾倒。1967年、18歳の時に上京、就職するが、3ヶ月で退職。その後“タブー”というバンドにドラマーとして参加する。このバンドのヴォーカルが布谷文夫。その布谷の紹介で中田佳彦という人物に出会い、さらにその中田の紹介で当時立教大学3年だった細野晴臣と出会う。その後、中田、細野とともに“ランプ・ポスト”というコード進行勉強会的なグループを結成、同時に細野は“エイプリルフール”というクリームやジェファーソン・エアプレイン、ドアーズなどのカバーと、英語詞のオリジナル曲、インプロビゼーション主体の演奏をディスコで行っていたバンドに参加。そのバンドのドラマーが松本隆だった。

「はっぴいえんど」結成のきっかけはバッファロー・スプリングフィールドであった。即興主体の演奏、そして「日本語はロックに乗らない」と言われていたことへの反発からか細野はエイプリルフールを脱退、同時に松本とバッファロー・スプリングフィールド的な音で、日本語で歌う、というバンドの構想を練り始める。そのときこの2人が大滝に出会う。大滝が「バッファローをわかる」の一言で、1969年9月23日にベース・細野、ドラム・松本、サイドギター・大滝の3人で“バレンタイン・ブルー”を結成する。その後、そこにヴェンチャーズのコピー・バンドをきっかけに細野とのセッション・バンドを経て“スカイ”の一員となっていた鈴木茂が参加。リード・ギタリストが加わり、バンドとして“はっぴいえんど”が結成される。

 はっぴいえんどがレコード・デビュー当時の1970年。いわゆる安保の年であるが、はっぴいえんどの作品は政治的な思想がほとんどなかった。デビューしたレコード会社であるURCには、岡林信康、高田渡などが在籍し、政治的な意味をを持った作品が多かったが、松本隆が書いた詞は自分の感性によるものが多い。彼は歌詞に描いたの心象を風街と呼んでいる。

 1970年8月、ファースト・アルバム「はっぴいえんど」発売される。大滝がファーストアルバムで目指したのは『ニューミュージック・マガジン』の日本ロック賞。予言通り、1970年度の日本のロック賞を受賞する。

 
 1971年11月、セカンド・アルバム「風街ろまん」としてリリースされる。このアルバムはうまく日本語をロックに乗せていた。このアルバムについてリーダーの細野は次のように語っている。
「『風街ろまん』で、ボクらはすべてを燃焼しきっちゃったね。詞も曲も、ベストなものを集めて作ったからね、完璧なレコードだったよ。今でも、好きなアルバムだね。だから、あのアルバムを作った後、ボクらは、何もやることがなくなっちゃったんだ。個人個人の音楽性も強くなってきたしね…」
アルバム発表後の各メンバーは別々に活動の場を広げていく。細野と鈴木はスタジオ・ミュージシャンとしての活動を本格化させていき、大滝はソロでのシングルとアルバム製作、松本は五つの赤い風船や柳田ヒロなど他のミュージシャンに詞を提供しだす。


『風街ろまん』のレコーディングのころ、細野がバッファローの次のアイドル、ジェームス・テイラーを大滝に教える。そのアルバムにピアノで参加していたのがキャロル・キング。大滝は「アチラはなーんもむずかしく考えずに、綿々と自分の音楽をやり続けてるんだよ。はっぴいえんどはさ、セダカ&グリーンフィールドだめ、マン&ウェイルだめ、ゴーフィン&キングだめ、って形で足を踏み入れた世界だったけど、じゃぼくは何のために目をそらし続けたか、と…ね。」と考え、1972年12月発売のファースト・アルバム『大瀧詠一』を制作。「はっぴいえんど」とは違う方向性のアメリカン・ポップス色調のアルバムになる。


1973年、ソロシンガーになった大滝は、三ツ矢サイダーなどのCMソングを中心に仕事をするく。また、この年の初めに東京・福生市に引っ越す。そのころ、伊藤銀次と山下達郎に出会う。当時、伊藤は大阪で“ごまのはえ”というバンドを組んでおり、レコードを作ることになった。そしてそのプロデュースを大滝に、ということで付き合いが始まる。そして山下達郎は、ビーチボーイズのカヴァーを中心にした自主制作盤を聞きつけた伊藤が大滝に紹介。山下は大貫妙子、村松邦夫らと“シュガー・ベイブ”を結成していたので、ノベルティ・タイプの“ごまのはえ”、ポップス・タイプの“大滝詠一”、メロディー・タイプの“シュガー・ベイブ”を軸とする“ナイアガラ構想”が完成する。

1974年、音楽活動は前年に引き続きCMソングのみだが、本人が「金字塔」と語る「サイダー'74」が完成。そこで大滝が出したいと思ったレコードが「サイダー'74」と「サイダー'73」のカップリングのシングル化に名乗りを上げたのがエレック・レコード。どうせならオリジナルレーベルにしないかと勧められ、同年夏、ナイアガラ・レーベルが完成。12月にザ・ナイアガラ・エンタープライズ設立。そしてナイアガラ・レーベル第1弾のアルバム、シュガー・ベイブ「SONGS」のレコーディングに入っていく。

この構想は フィル・スペクターが1960年代初期に自身の会社、“フィレス”を興し、独自のウォール・オブ・サウンドと呼ばれるスタイルを確立したのに似ている。ウォール・オブ・サウンド代表曲にロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」やクリスタルズの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」などがある。


1975年、4月に『ソングス』、5月に自身のセカンド・アルバム、「ナイアガラ・ムーン」リリース。しかし、「SONGS」発売後3ヶ月でエレックが倒産する。同時にシュガー・ベイブがレコーディング契約破棄と解散。

1975年6月、ラジオ関東で大滝自身が企画から選曲、DJまで務める番組、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」がスタートする。第1回目にキャロル・キングを特集。以降、ニール・セダカ、バリー・マン、バディ・ホリー、ニール・ヤングやエルヴィス・プレスリーから春日八郎、小林旭、クレイジー・キャッツなどの古今東西問わず、自分が好きな音楽だけをかけまくる個人的名趣味の番組だった。

 エレックが倒産したあと、ナイアガラ・レーベルは日本コロムビアに移籍する。コロムビアでの第1弾アルバムが大滝、山下、伊藤3人で制作した『トライアングルvol.1』である。

1976年、コロムビアでのソロ第1弾、ということになり、企画されたのがラジオ番組もしている関係で『ゴー!ゴー!ナイアガラ』を制作。自分の番組のレコード化で、特集は自分の新曲というコンセプトのアルバムになる。

1977年、シングル「青空のように」発売。加えて、シリア・ポールのアルバム『夢で逢えたら』をプロデュース。「夢で逢えたら」を基本とする、ポップス・タイプの曲ばかりで、全編エコーたっぷりのスペクター・サウンドを意識したアルバムである。現在では人気曲であるが、当時は全く売れずじまい。

78年11月、1970年代ナイアガラの最後を飾るアルバム、『レッツ・オンド・アゲイン』発売。

1980年4月13日、アルバム『ロング・バケイション』のレコーディング開始。その日のことを大滝は1984年にこう語っている。
「その『ロンバケ』なんだけど、レコーディングの初日、忘れもしない80年4月13日、「君は天然色」の最初の音が出た瞬間、できたー!と思った。長年求めていた音が遂に。という感じで嬉しかったね。『ロンバケ』は「君は天然色」のノリで一気にできた、ともいえるね。」
アルバムの発端は1979年の大滝詠一:作、永井博:絵の同名の絵本である。この絵本にシングル6枚をセットし、発売しようとしたところ、様々な事情により、この計画は挫折。それぞれ単独での発売となった。またこのアルバムは旧友、松本隆との再会でもあり、。全10曲中9曲が松本作詞、残り1曲は大滝自身の詞となる。同年6月にはこのアルバムのインストにギターとキーボードでガイド・メロディを入れたカラオケ版、「シング・ア・ロング・バケイション」を限定1万枚でリリース。当初の夏向けのアルバムという構想通りにリリースされたため「さらばシベリア鉄道」はカットされた。