誰からも愛されたペット奏者クリフォード・ブラウン
マイルス・デイビスがジャス、トランペット奏者の大御所ならば、若くして夭逝したクリフォード・ブラウンは美しいメロディラインのみならず即興パートでも香りに満ちた宝石のようなアーティストです。では、常に演奏に「歌」があったトランペッター「クリフォード・ブラウン」の人物像に迫ります。
鼻もでかいがパワーもでかいブラウニー
クリフォード・ブラウン(以下ブラウニー)のCDジャケットは、どれも彼の正面からアップで撮った顔写真はありません。横顔、もしくはペットを吹いている上半身像など彼の本当の顔はなかなかわかりません。それは当時のレコード制作側が、セールス上彼の大きな鼻を気にして、あえて大きく見えないように工夫したという話が伝わっています。さて、演奏の方ですが、50年代のマイルス・デイヴィスが主に中域パートを吹いて、アレンジに比較的忠実に演奏するクールジャズとすれば、ブラウニーのペットは優れたテクニックと柔軟で豊かなフレージングで素晴らしいメロディーを奏でるホットなジャズです。
彼の演奏が最大限に開花したのは、最高のパートナー、マックス・ローチとの出会いからです。アート・ブレーキと並ぶモダンジャズの名ドラマーであるローチは自ら作曲、編曲し、リーダーとして活躍した数少ないドラマーで、ブラウンと組んだ演奏の数々はお互いにインスパイアーされながら、ファンキーでパワフルな演奏をしています。ブラウニーはローチとのクインテット(5重奏団)を組む前に、有名なアート・ブレーキー“ジャズ・メッセンジャーズ”に加わり、クラブ「バードランド」で名演を残しています。この54年のブルーノート盤の名ライブセッションを当時の批評家は以下のように語っています。「ブラウニーの音楽は力強く華やかで、音の幅が広く創意工夫と音楽への愛情に溢れている。こんなプレイはナヴァロ以来だ(ファッツ・ナヴァロはブラウニーが最も影響を受けたトランペッターで、50年にわずか26歳で死去)。彼のパワーはすごいの一言につきる。抑えることのできない突き上げるような流れが内の中から溢れだし、巨大なパワーを持った滝となり、次から次へとアイデアとなって落ちてくるようだ。」この年、ブラウニーは音楽誌“ダウン・ビート”からニュースターに選ばれています。また、ブラウニーの演奏は、この時期多くのジャズメンに影響を与えていました。ロリンズ曰く、「私に与えた影響はとてつもなく大きいものだった。音楽的にはもちろん、彼の人間性や生活態度から学ぶことも多かった。」ブラウニーがみんなから愛された理由はその素晴らしい演奏はもちろんですが、彼の人柄も多くの人を魅了しました。「スイート・ブラウニー」と呼ばれるように、彼は温厚でどんな場合でも笑顔を絶やさず、清くつつましい生活(決して、麻薬や酒に溺れることがなかった)で、一流のジャズメンになったお手本でした。
50年初頭のジャズ不況
意外かもしれませんが、黄金のバップ期を過ぎた50年代初頭のジャズシーンは不況でした。マイルスを始め、セロニアス・モンク、ロリンズなど後のジャズの巨人たちが頭角を現してきたのもこの時期ですが、ニューヨークのジャズメンはタクシー運転手、ヨーロッパ演奏巡業、またはウエスト・コーストへ活動拠点を移すなど経済的苦労が多かったのも事実です。さらに、あるものは麻薬におぼれ、演奏する気力さえ失うほどでした。ブラウニーは53年には5ヶ月間、クインシー・ジョーンズを含む新進気鋭のメンバーで構成されたライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパツアーに同行していますし、一方、ローチも54年にカリフォルニアで演奏活動をしていて、今後ウエスト・コーストで新しいバンドを組むために新しいメンバーを捜しているところでした。
音楽の幸運児、車の不運児
少しさかのぼりますが、ブラウニーは高校入学のお祝いに父親からトランペットを贈られ、地元のミュージシャンについて音楽理論やトランペット奏法を学んでいます。この教師はブラウニーの厚いくちびるを見て、トランペット向きだと確信したと言っています。その後、なぜか大学では数学を専攻しますが、音楽の勉強を止めるどころか益々盛んになり、運良くメリーランド州の音楽学校に奨学金を得て、編入することができました。音楽学校に入学して間もない頃、彼は地元に演奏旅行にきていたディジー・ガレスピー楽団でトランペットの代役として、舞台に立つ幸運に恵まれました。彼の演奏は絶賛され、その後6夜連続で出演します。また、後に恩師となるファッツ・ナヴァロにもこの頃出会います。ブラウニーわずか19歳の出来事です。これほどの好調な滑り出しを見せた幸運児ブラウニーですが、1度目の自動車事故で1年間病床につく羽目になります。アート・ブレーキー“ジャズ・メッセンジャーズ”後、やはりドラマーであるローチの誘いを受けて、ブラウンーローチの有名なクインテットを54年に結成。エマーシー・レコードに約2年間数々の名演を残していきます。24歳のブラウニーは、20歳のラルーと結婚し、ローチとのクインテットも月を追って評判になり、まさに公私共に絶頂期を迎えます。すぐにかれらの楽団はマンハッタンでももっともメジャーなバンドのひとつになり、ヘレン・メリルやサラ・ヴォーンとの共演も実現しました。
恩師ナヴァロとの共通点
ブラウニーが「もっとも好きなトランペッターは?」との質問に必ず7歳年上のナヴァロをあげました。ブラウニーはナヴァロの音楽スタイルを受け継ぎ、バップからハード・バップへと昇華させましたが、2人は運命的にも似ている部分が少なくありませんでした。互いに13歳で父親から贈られたトランペットを吹きはじめ、努力家でいくつもの楽器をマスターし、同じ天秤座でした。しかも2人とも20代半ばで亡くなっています。ナヴァロは麻薬と結核が原因ですが、ブラウニーは2度目の交通事故に出会い、わずか25歳で他界します。ビル・エヴァンスがスコット・ラファロを失ったとき演奏からしばらく遠ざかったように、相棒のローチも茫然自失で数カ月間演奏不能な状態に陥りました。しかも、ローチは事故が起きた車に残された彼らの録音テープを悲しみのあまり発表することができず、20年後になって初めてリリースしたほどでした。
(nao)