マイルス・デイビス酒、女、麻薬


セロニアス・モンクとの対立

先輩に意見する完全主義者 ギョロギョロした目に、少しやせ細った頬の顔を見るだけで、ただ者ではないという雰囲気を持つマイルス・デイビス(1926〜1991)。自我が強烈で自信家、短気煥発型の自己主張を曲げない姿勢は、アーティストとしての個性を申し分なく発揮しています。当然それを表すエピソードは事欠きません。セロニアス・モンク有名な、マイルスと、ピアニストのセロニアス・モンクとの1954年12月24日に録音された『クリスマス・喧嘩セッション』では、2人の異なる個性がぶつかり合い、一発触発の状態で非常に緊張感がある名演が生まれました。後日、マイルスの伝記本やモンクのインタビューで、「喧嘩などしていない」というコメントにより、この裏話は誤解の産物だと言われています。しかし、実際にこの時録音された演奏を聴く限り、演奏上の2人の対立は決定的です。水と油のような全く演奏スタイルが違う2人が共演したのは、ジャズ界で有名なPrestigeレコードの社長の発案によるものです。さらに、4曲録音されたナンバーの中で、ガーシュインの名曲「The Man I Love」では、マイルスのソロ演奏の後、モンク自身のパートの途中で、突然演奏をやめてしまい、リズムセクションのみしばらく続きます。この突然の演奏中止に驚いたマイルスは、畳み掛けるようにトランペットを高らかに鳴らし、モンクの演奏を促します。その挑発に呼応するかのように、彼はそれまでと違ってエネルギッシュにピアノを弾き始めます。この事件のきっかけは若いマイルスが先輩格のモンクに、1曲目の「Bemsha Swing」を録音後、「TheMan I Love」では「ソロ演奏時にはバックでピアノを弾かないで欲しい」と注文をつけたのが始まりです。190cm近い巨漢で腕力には自信があったモンクは、それ以上何か言ったらぶん殴ってやるという気持ちでマイルスの要求を聞いたと言われています。

マイルス(奥)とコルトレーン(手前麻薬に溺れたマイルスを救った女

麻薬に溺れたジャズマン マイルスは自伝でも著しているように音楽以外に、麻薬、酒、女性に対して快楽を追求したといってはばかりません。実際、ジャズメンで麻薬に関わっていたミュージシャンは数え切れませんが、マイルスの同時代では、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンスと、ジャズ界の巨人のほとんどが中毒になっています。そして皆マイルスより先に世を去っています。マイルスが麻薬に溺れた最初の原因は、尊敬する“バード”ことチャーリー・パーカーの誘いによると言われています。バードはすでにヘロインに溺れていました。最初はヘロインこそ拒否していたマイルスですが、だんだん巻きこまれていき、コカインに手を出し、次にヘロインへと泥沼に陥ります。ジュリエット・グレコまだ、クールジャズともてはやされたマイルス音楽の出発点アルバム「クールの誕生」(1949年)以前の出来事です。マイルスは麻薬に走った理由を、49年に出会い、一目惚れして、初めて本気で愛した歌手、ジュリエット・グレコ(白人、50年代フランスのトップスター、実存主義を唱えるサルトルらに合流し、実存主義のアイドルとも言われた)との恋によるものだと話しています。57年、再度パリを訪れ、滞在中に映画「死刑台のエレベーター」のサントラ版を録音しましたが、グレコへの想いを表現したのか、ラッシュフィルムを見ながら即興で演奏したのにも関わらず、アンニュイで哀愁ある旋律が奏でられています。 1954年、尊敬するバードは麻薬で死に、マイルスのみならず多くのジャズメンは大変なショックを受けます。彼らは一様に麻薬を断ち切ろうと努力をし、マイルスもその後、演奏活動を続けながら立ち直っていきます。そして生まれたのが、先のクリスマス・セッションとなったアルバム『バグス・グルーブ』と『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』です。

70年代のマイルス数々の薬物から立ち直る

マイルスは数々の薬物で、50年代の初頭、まだ彼が20代前半の時期から、徐々にからだを壊していきました。しかし、尊敬する先輩バードの死後にヘロインは絶ちましたが、自身が常習性の少ないと信じるコカインとは断ち切れず、さらに長い間、薬物中毒から完全には回復できませんでした。64年2月の母親の死を境に再度コカイン中毒に陥り、加えて誇大妄想にとりつかれ、精神的にも大変不安定になります。一方、ジャズ音楽そのものもマイルスが確立したモード奏法などのスタイルが衰退していき、前衛的なフリージャズへと変革していきました。マイルスは急激に変化するジャズ界の流れに遅れまいと常に先を走りましたが、麻薬中毒に加えて、65年から66年にかけては大腿骨の手術や肝炎などで体調を崩し、音楽活動を休止するまでに至ります。 67年から音楽活動を再開したマイルスは、ジミ・ヘンドリックスなどのロック系のミュージシャンとも共演するようになり、いわゆる「フュージョン」音楽を確立していきます。音楽界ではグラミー賞も受賞し、大御所になってきたマイルスは、75年に病気を理由に突然活動を休止します。40年近くマイルスの人生の大半を占めていた音楽に対して急激に熱が冷め、それは麻薬とセックスに置き換わり、そして、音楽仲間からも見放されていきました。音楽ビジネスの白人優先主義や、49歳までひたすら走りつづけて完全燃焼した虚脱感などで、突如新しい別の生活を欲したのだと語っています。彼の告白によれば、75年から80年までの休止中、一度もトランペットに触れることなく、滅茶苦茶な生活を送ります。薬物を多用して、ハイになっては自宅に女性を連れ込みセックスに明け暮れ、加えてハイネッケンやコニャックを暴飲しました。部屋の中は非衛生極まりなく、雇ったメイドもすぐに辞める始末でした。しかし、女優シシリー・タイソンとの出会い、そして彼女の献身的な助けで、徐々に薬物アルコール、タバコから遠ざかり、80年に入ってついに薬物中毒を完全に克服、再びトランペットを持って音楽界に復帰します。 そして、奇跡の復活から11年後の91年9月、持病の糖尿病が悪化し、呼吸器、心不全などの合併症により、突然、この世を去りました。享年65歳でした。(nao)

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