娼婦から大統領夫人になったエビータ


政変の多い南米


若い頃のエバ21世紀にはいっても、戦争、政変はなくなることはありませんが、96年12月に起きたペルーの日本人人質事件に見るまでもなく、南米は政情の不安定な地域で、革命家がしばしば現れる一方、独裁的な政治を施行しない限り、政治経済の安定は望めません。20世紀の中頃、彗星のように現れて消えた1人の女性の運命は、一国の政治のみならず、国の未来に対しても多くの影響を残しました。
アンドリュー・ロイド・ウエッバーの人気舞台ミュージカルで、その後マドンナの主演で話題となったミュージカル映画「エビータ」、その主人公となるエバ・デュアルテに焦点を当て、彼女の運命と共に生きた人々の人生を駆け足で紹介します。

特権階級と労働者たち


1939年、第2次世界大戦が勃発した当時のアルゼンチンの社会は、特権階級と労働者階級に2分していました。幸い、大戦に参加しなかったアルゼンチンは国力を十分に蓄えましたが、貧富の差は縮まらず、国民の多くは未だに汽車も通らない辺境の地で貧しい生活を強いられていました。妾の子どもとして生まれたエバは、大都市ブエノスアイレスから遠く離れた田舎町フニンで世間の冷たい視線をあびながら成長しますが、決してそれに挫けることなく16歳の時、女優を目指してブエノスアイレスに上京します。男性社会のアルゼンチンで、学もコネもない田舎の娘は、何人もの男性遍歴を経て、一歩一歩どん底から這いあがっていきます。

エバ・デュアルテからエバ・ペロン、そしてエビータへ

大衆に絶大な人気のエバエバは映画女優としては大根役者でしたが、声優としての素質に恵まれ、自らのラジオドラマを持つようになり国民的な人気を得ました。後に夫となるペロン大佐と出会うのは、44年に行われた大震災チャリティコンサートで、この出会いがその後の2人の人生に大きな影響をもたらします。
エバの一生を紹介する著作物の多くは、政界に入る手段としてエバが最も大統領に近い男に接近したように記されていますが、当時のペロン大佐の立場を考えると、軍内部の掌握に今一歩及ばないため、エバの大衆的な人気を利用するためにペロン自身が近づいたとも考えられます。ペロン人気を恐れた大統領が、ペロンを軟禁しましたが、エバがラジオを使った救済活動をはじめ、その結果民衆の指示を得て、軟禁を解かれます。その後2人は結婚して、エバ・デュアルテはエバ・ペロンとなります。エバの愛称である「エビータ」はラジオドラマの女優時代から使われていますが、晩年のエバは自分の使命とエビータと呼ばれることを同一視するようになります。


夫、ペロン大統領

ペロン大統領とエバエビータの陰に隠れて、存在観の薄いペロンですが、彼の人生も波乱に富んでいます。ペロンもエバ同様私生児として生まれ、国の最南端パタゴニアで退屈な生活を送りますが、それを嫌って陸軍士官学校に入学します。その後はとんとん拍子に出世し、エバと出会う頃のペロン大佐は、副大統領兼国防大臣兼労働局長という立場にありました。ペロンは最高権力の獲得を望んではみたものの、一方闘争のない平穏な生活も望んでいました。彼が弱気になると、いつも大統領を目指すようにしむけたのがエバでした。
ペロンの軍部や特権階級からの反感にも関わらず、エバがラジオという当時最大のマスメディアを使った宣伝活動により、大多数の労働者階級の支持を得て、一歩一歩最高権力に近づいていきました。エバあってのペロン、エビータはニュー・アルゼンチンの象徴であり、国民大多数の意志であり、聖母でもありました。
一方、ペロンはペロン主義というエビータが生み出した政策の実行者にすぎなかったのです。この状態はその後の彼の人生につきまといます。ペロンの人生が狂い、アルゼンチンに革命の嵐が起きるのはすべてエバの死後です。52年にエビータが癌により33才で世を去ってから、わずか3年でペロンは軍事政変により大統領の職を追われ、パラグアイに亡命します。その後スペインに渡って、キャバレー歌手と再婚して、最初に望んでいた平穏な暮らしを始めます。その頃、軍部の独裁政権で始まったアルゼンチン政府は、何度となく左派、右派入り乱れた流血事件や革命家の煽動により、政治が二転三転します。
73年にペロン主義派の画策により、祖国に戻ったペロン元大統領は、エビータが残した無形の資産を使って、再び大統領に選ばれます。民衆はペロンの後ろにエビータの政治を期待したのです。しかしながら、ペロンは翌年死去、彼の3番目の妻が大統領職を引き継ぎますが、信望も政治力もなく再び政治は混迷し、76年には再度政変が起こります。アルゼンチンに民主主義政治が戻るのは、83年まで待たなくてはなりませんでした。


エビータの遺体

癌で入院中のエバ(1951年)エビータは死んだ後も亡骸は政治的に利用されました。晩年のエバは、エバ・ペロン財団を利用して、私腹を肥やしたとの噂が絶えませんでした。事実、労働者から集めた募金は、貧しい人々にミシン、毛布、食料となって配られ、その一部は戦後食料難であった日本へも送られはしましたが、彼女が豪華な外国製のドレスを着て、数々の宝石類で着飾ったのも事実です。しかし、死に近づくにつれ、何かにせかされるように一心不乱に仕事をこなし、宝石類への関心も薄れ、興味はもっぱら自らの死後の処遇へと移りました。彼女は完ぺきな防腐処理を希望し、そのための専門家も選定しました。エビータは、自分がアルゼンチンの歴史に残ることを意識したに違いありません。恐らく国の聖母として民衆の心に残りたかったのでしょう。しかし思惑とは別に、ペロン政権が崩壊した後、新しい大統領によって遺体は隠蔽されます。最初、遺体を焼却することも考えられましたが、さすがに民衆の反乱を恐れて、いくつかの偽物とともに複数の国へ送られます。ペロン政権が復活したとき真っ先に行われたのが、遺体の捜査と祖国への帰還でした。エビータは、今もなお労働階級のみならず、一部の特権階級の人々の心の中に生き続けています。 (nao)

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