小津安二郎カメラワークの世界
小津安二郎の撮影スタイル
日本よりもむしろ欧米で評価が高い名監督、故小津安二郎が、戦前のリアリズムを貫く小品から、戦後のいわゆる”ホームドラマ”のはしりとなり大スターや計算された美しい画面を軸にした大作まで、小津監督が描いたのは常に市民の生活でした。特に戦後の作品には、小津独特の芸術美がどの作品にも現われており、例えば食事のシーンなどでは、茶碗に始まり、箸、そして背景の掛け軸にいたるまで、全ての小道具に彼の趣味がいかされています。そのような小津独特の映像美とともに、戦前の作品初期の頃からこだわっていたのがローアングル/ローポジションの撮影手法です。
ローポジション撮影誕生の秘密
テレビドラマをご覧になればわかると思いますが、人物の会話シーン等では、通常カメラはアイ・ポジション(目線)で撮られています。二人の交互のカットバックでも、もし背の違いがあれば、一方は画面中央より高く、一方は低くと目線を中心に構図が違っています。しかし、小津作品ではややもすれば不自然なくらいカメラは畳をなめて低いアングルから人物を捉え、しかも背の高低もおかまいなく二人の画面構図はあまり変わりません。さらに小津監督はカットのつなぎにオーバーラップ、フェードイン/アウトなどを一切使わず、また移動やパンニング等の撮影手法も拒否したため、個々の完成された工芸品のようなショットのつなぎは、一種独特な“間”を生み出し、それが独自の日本的な様式美を創りだしています。さて、このような小津世界を創った手法の要であるローアングル/ローポジションは、いつ頃からどのような理由で始まったのでしょうか?
戦前の小津作品はほとんどの撮影をてがけたカメラマン茂原英雄氏が「箱入り娘」を撮影中に面白いことを言っています。「下痢で困った。セットの床に腹ばいが続いたので冷えたんだね」。これから推測すると彼のローポジションのアイデアは昭和10年の頃から芽生えていたようです。昭和7年の名作「生まれてはみたけれど」では、小津の特徴であるオーバラップやフェイドを排してカットでつなぐ映像手法がほぼ完成されていたので、そこから3年の間に小津独自の映像スタイルが確立していったわけです。
日本人の心を描く
大戦に入る前の作品「戸田家の兄妹」(昭和16年)から戦後ほぼ一貫して小津作品のカメラを担当し、小津の美学を最も端的に表現したカメラマン厚田雄春氏(「小津安二郎物語」著作)も小津のローポジションの秘密を探った面白い記事を残しています。要約すると”小津の作品では、一場面の中でのカメラの動きは見られず、画面内の人物の動きによって演出している、また会社、アパートの廊下のカットでは、極端なローポジ・アングルで撮影し、その奥行きの深さを表現している。対話場面における人物のアップにいたっても、ローポジ・アングルはくずさず、真正面のポーズで立体感を持たせて現実感を与え、観客が映画中の登場人物と会話をしているように見せている。”さらに、ローポジション誕生の手がかりとして「小津構図はサイレント時代のポジションの発展したものではないでしょうか。ローポジのアップサイズは、特にサイレント映画の演出に端を発しているもので、画面の中で人物の動と静とを同一サイズのうちで処理していますね。後略」という意見をあげ、結論として、ローポジションはやはり小津監督という人間性からきているといえるだろう。誰にも分かりやすく見てもらおう。そして日本人の心を描き出そうという精神がこの独特なスタイルを生みだしたと結んでいます。
小津組の俳優たち
最後に、小津組といえる監督ひいきの俳優をあなたは何人知っていますか?岡田時彦(岡田茉莉子の父)、笠智衆、佐田啓二(中井貴一の父)、佐分利信、佐野周二(関口宏の父)、飯田蝶子、原節子、東山千栄子、田中絹代、杉村春子、高峰秀子、淡島千景、有馬稲子、岡田茉莉子など、もし全員知っていれば60代、10人以上は50代、5人以上は40代、全然知らなければまだ学生さんという目安になるでしょうか?