1908年度版 | 訳:福島良一氏 | |
Katie Casey was base ball mad. Had the fever and had it bad Just to root for the home town crew, Ev'ry sou Katie blew. On a Saturday, her young beau Called to see if she'd like to go, To see a show but Miss Kate said, "No, I'll tell you what you can do." |
ケイティー・ケイシーは野球に夢中だった かなりの熱を上げていた 地元チームを応援するために お金を使い果たしていた ある土曜日、ボーイフレンドが 映画に誘ってくれたけど ミス・ケイトは断わってしまった 私がしたいことを教えてあげましょう |
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"Take me out to the ball game, Take me out with the crowd. Buy me some peanuts and cracker jack, I don't care if I never get back, Let me root, root, root for the home team, If they don't win it's a shame. For it's one, two, three strikes, you're out, At the old ball game." |
私を野球に連れてって 球場の大観衆がいるところへ連れてって ピーナッツとクラッカージャックを買ってくれたら もう家に帰れなくてもかまわない さあ、ホームチームを応援しようよ もし彼らが勝たなかったら悔しいけど ワン、ツー、スリーストライクでアウト 昔ながらの野球のゲームで |
シナトラの栄光と挫折
イタリア移民の貧しい少年時代を過ごしたシナトラは、若いころ警察に御用になるなどかなりの悪ぶりを見せましたが、1939年に24歳で歌の才能を認められ、ハリー・ジェームズ楽団でデビューし、一躍人気歌手となります。実力的にもJAZZシンガーとして数々の名アルバムを残しており、現在でも名盤として売られている作品はすくなくありません。しかしデビュー当時の人気も長く続かず、イタリア人に対する人種差別への反抗行為もあり、シナトラは共産主義者のレッテルを貼られたりして、1946年過ぎから落ち目となります。このころ、映画出演に復活の機会を探していたため、マフィアの大物ボスに近づき、その黒い関係がマスコミの格好のネタとなっていまいます。「私を野球に連れてって」の公開後も人気は下降し、ストレスからか声は精彩を失い、遂に1950年ニューヨークのクラブに出演中に声が出なくなると言うアクシデントに襲われ、映画やラジオへの出演も次々と打ち切られてしまいます。
ベストセラー「地上より永遠に」が映画化を知ったシナトラは復活を賭けてスクリーン・テストを受けました。なかなか役が取れないシナトラがマフィアに頼んで役を得たというエピソードは映画「ゴッドファーザー」に出ています。しかし、シナトラはわずか8000ドルの出演料で役を受けたのです。それだけ復活を賭けて彼は必死だったのです。また、妻の女優エヴァ・ガードナーの尽力が大きかったとも言われています。結果的には、1953年に公開された本作品での熱演が認められ、アカデミー助演男優賞を獲得。歌手としてもキャピトルと契約しスターの座に返り咲きます。
暴力歌手シナトラ
シナトラの知られざる闇の部分として、彼の暴力的な性格があげられます。サインを求めるファンに対してさえも不機嫌なときは暴力を振るったという彼のボディガードの手記を読むと恐ろしいものがあります。
いわゆる『シナトラ一家』はザ・ラット・パック(“不良集団”の意)と畏敬を込めて呼ばれていますが、シナトラがラットであるのは、貧しい少年時代からで、その短気が相まって、揉み消された暴力沙汰は数多くあったようです。一方ではボディガードに、そして他方ではマフィアにマスコミに知られないように後処理をされたと考えられます。
ちなみにシナトラをボスと慕う一家の面々はディーン・マーティン、サミー・デイビスJr、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップなどで、リメークされ評判を呼んだオリジナルの「オーシャンと11人の仲間」(1960)では息の合った演技を見せています。
シナトラとジョン・F ケネディ
同時代を生きたシナトラとジョン・F ケネディにはいくつか共通点があります。女性関係でゴシップを提供した点以外にも、禁酒法の時代に財を成したケネディ一家と禁酒法で勢力を増したマフィアとのふたりの繋がりは結果的にその後の運命の明暗を分けます。昨年度のブッシュ対ケリーの大統領選は記憶に新しいですが、ケネディも民主党大統領予備選のときに、密かに父親の依頼を受けたシナトラがシカゴのマフィアのボスと接触し、マフィアが牛耳る労組の支持を取り付け、ウェストバージニア州でのケネディ勝利に導いたとも言われています。さらに、当時のCIAはキューバにカストロによる社会主義政権が樹立されたとき、マフィアを使ってカストロ暗殺を試みています。JFKが知らぬところで画策された件にせよ、JFKに貸しがあると思っているマフィアは、1961年に司法長官に就任したロバート・ケネディが徹底的にマフィアの撃退政策を取った恨みで、ケネディ兄弟の弱みを握るべく弱点を利用しようと考えました。それが、ケネディ兄弟の女性関係です。マフィアはJFKの友人シナトラを利用して、ショービズで知り合った数々の女性を紹介させました。2人の女性スキャンダルの証拠を押さえて脅迫しようと考えたわけです。そのうちの1人がマリリン・モンローです。
マリリン・モンローと野球
モンローも野球と縁がありました。彼女はイチローも超えられなかった56試合連続安打の大記録を持つヤンキーズの伝説の選手ジョー・ディマジオと結婚し、日本に新婚旅行に来た後、わずか274日で破局を迎えています。この悲しい結末は、日本におけるモンローの人気がディマジオと比較して破格であったことが原因だとされています。米国でスポーツ選手は尊敬の対象であり、人気に於いてもモンローを上回ると考えていたディマジオは、日本での新婚旅行時における庶民やマスコミの関心がもっぱらモンローに集中した点にひどく動揺したようです。結果、新婚旅行で2人に深い溝ができてしまい、9ヶ月ばかりでの破局となってしまいました。
モンローの葬式に参列できなかったシナトラ
ディマジオと離婚後、情緒不安定もあり、モンローは意味もなく男性遍歴を重ねていき、ケネディ兄弟との不倫関係の後に不可解な自殺を遂げます。後にマフィアによる毒殺とも言われました。
モンローの葬式にはディマジオが中心となりわずか20数名のごく内輪で執り行われましたが、彼はケネディ家を始めスターや有名人の参列を完全に拒絶し、特にシナトラは、教会の入口まで来ていながら讐備員に出席を阻まれました。ディマジオは棺に横たえているモンローに薔薇の花を捧げ、涙で頬を濡らしながら3度、「I
Love You」と繰り返し唇にキスをしたと伝えられています。そして彼はモンローの死後、生前の約束どおり20年間にわたって火曜日から土曜日まで毎日、ロサンゼルスにあるモンローの墓前に赤いバラを贈り続けました。
最後に、シナトラの人生はまさに歌のごとく「May Way」を連ねたものでした。歌からイメージするシナトラ像とは随分違うかもしれませんが、モンローとはお互いに好意を持っていたようで、シナトラはケネディ兄弟に紹介した一方でモンロー死の数週間前、そして彼自身もエヴァ・ガードナーと離婚したばかりのころ、彼女にプロポーズしています。
野球と政治に関連したシナトラとモンロー、2人は似たもの同士なのか最後にお互いに惹かれあうのは不思議なものです。しかし一方は暴力の犠牲になり早世、一方は暴力の加害者となり長生きしたという点は皮肉です。