渡辺茂夫のCD神童 渡辺茂夫

音楽の世界では、しばしば神童が現れます。古典的にはモーツァルトやメンデルスゾーン、現代では、ヴァイオリン奏者のヤッシャ・ハイフェッツや五嶋みどりが有名です。ところが、日本にもう1人まだ音楽活動を続けていたならば、演奏面のみならず作曲面でも歴史に留められたであろう神童がいました。昭和20年代後半に若干10歳を少し越えて国内の演奏家として確固たる評価を受け、14歳で世界を睨んで、米国のジュリアード音楽院に留学した渡辺茂夫です。残念ながら彼は留学中の昭和32年に自殺未遂をおこしその輝ける才能は16歳にして終焉をむかえます。両親をはじめ多くの関係者から世界の音楽家として一身に期待を受けていた茂夫でしたが、すでに音楽家としての「渡辺茂夫」は完成されていました。それでも彼が留学したのは、当時の日本では彼と共演できるレベルの音楽家が少なかったこと、それに最高を目指すにはやはり世界の舞台に立つ必要があったからです。しかし、茂夫の音楽性を理解していた人たちは、それでもなぜまだ幼い時期に留学の必要があったのかと顧みます。今回は、神童の出現、渡米、そして自殺未遂まで、なぜ日本の偉大な才能が失われるに至ったかを考察します。

神童が生まれるまで


神童には2つのパターンがあります。生まれながらにしての天才、そして努力を重ねた結果の天才。モーツァルトを前者とすれば、茂夫は明らかに後者です。養父の渡辺季彦はオーケストラのヴァイオリン奏者としても、また音楽教育者としても一流の人でした。自らの経験から音楽教育は幼いうちから徹底して行うべきだと、茂夫にも5歳のころからスパルタ式でヴァイオリンを教え込んでいきました。毎日7〜8時間、幼い子供には地獄ともいえる特訓を施したのです。彼の完ぺきなまでのテクニックは父の指導のもと完成していき、そして彼の天賦の才能が加味して、後に「天上の音楽」とも呼ばれた、他にはまねの出来ない演奏を行うようになりました。7歳の小品の初リサイタルから、小学6年生の時にはすでにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の共演まで神童にふさわしい音楽活動を続けました。

神童は神童を知る


ヤッシャ・ハイフェッツ茂夫がジュリアードへ留学するきっかけとなったのは、世界的なヴァイオリニスト、ハイフェッツとの出会いでした。茂夫の才能に惚れ込んだ彼は、最年少でジュリアード音楽院のスカラシップに推薦します。ハイフェッツ自身、15歳の時ベルリンフィルと共演して、「100年に1人の天才」と呼ばれた人物です。非常にプライドの高い彼は、茂夫をして「25年に1人の天才」と称賛しました。これはハイフェッツにとっては最大の賛辞なのです。また一方、茂夫は作曲の方面でも非凡な才能を発揮しました。茂夫が試作するソナタやオペラを見て、彼を指導した武蔵野音大教授プリングスハイムは最大級の賛辞を惜しみませんでした。もし、彼が作曲を続けていたならば、演奏家としてだけではなく、作曲面でもクライスラー以上の成功が約束されていたでしょう。茂夫の音楽にはそれほどの美しさが宿っていたのです。

ガラミアン学校

イワン・ガラミアン教授茂夫を推薦したハイフェッツには大きな誤算がありました。父、季彦が茂夫に伝授した奏法はかつてハイフェッツも師事したレオポルド・アウアーの流れを含むものです。一方、ハイフェッツが推薦したガラミアン(Ivan Galamian 1903-1981)は当代最高の音楽教師でしたが、茂夫の演奏法には否定的でした。ガラミアン学校では後にパールマンやズッカーマンなど今日では巨匠と呼ばれている演奏者を輩出します。しかしながら、厳格な彼の教育法はすでに完成されたスタイルを持つ茂夫には不適切で、才能を伸ばすよりむしろ混乱を与えたようです。感受性の高い思春期の子供への教育としてよく見られる傾向ですが、褒めることよりも厳格な指示による教え方は、かえって反発を買い、本人の才能を縮める結果となります。特に感受性の高い茂夫にとっては、ガラミアンのレッスンは、本人の人格まで否定しかねなく、彼は徐々に情緒不安定に陥っていきます。彼の変化は単に反抗的になっただけではなく、人間嫌いになり、また自分自身を否定するような日本語拒否反応を示すようになります。この結果、周りからも疎外されていき、ますます孤独に陥るようになっていきます。さらにひどいことに、本来援助されるべき茂夫の生活費が、当時身元引受先であったジャパン・ソサエティから生活に必要な半分も支給されず、生活は惨めなものでした。

大人の都合

茂夫の精神状態を知った両親は、早く日本へ帰国させようとジャパン・ソサエティに打診します。しかし、茂夫を診ている精神科医やジャパン・ソサエティは現在の精神状態を考え反対します。海外への旅行がとても難しかった1950年代は、お互いのコミュニケーションも同様に困難で、1週間以上かかる手紙が主な手段でした。そうする間に茂夫の状況は益々悪い方向へ流れていき、結論がつかぬまま、お互いの不信感は募るばかりです。大人の議論は現状を理解するよりむしろ、メンツや感情論に行きがちです。茂夫に本当に必要なものは常にそばにいて、彼を励ます人物だったのでしょうが、彼はいつまでたっても孤独でした。

神童の悲劇

茂夫は未成年者が買えない睡眠薬をどこからか買って、それを大量に飲んで、自殺を図ります。それ以前に自殺を匂わす言動がしばしば見られましたが、残念ながら誰も真摯になって彼を顧みるひとはいなかったのです。一命を取りとめましたが、彼の脳細胞は薬の影響で破壊され、音楽家としての偉大な才能も失われました。彼の自殺未遂にはまだ謎が残り、真実は完全に解明されたわけではありませんが、父、季彦と門下生の努力により、今日かつて茂夫が残した名演奏をCDで聞くことが出来ます。東芝EMIより「神童」、「続、神童」など3枚が近ごろ発売されました。 「神童」 山本茂著

「神童」バイオリニスト 渡辺茂夫さん死去 1999・8・15 朝日新聞 朝刊記事より
七歳でデビュー、神童と絶賛されながら、米国留学中の事故で長く寝たきりとなっていたバイオリニスト、渡辺茂夫(わたなべ・しげお)氏が、十三日午後十時五十七分、急性呼吸不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。五十八歳だった。葬儀・告別式は十六日午前十一時から神奈川県鎌倉市西鎌倉四の七の十一の自宅で。喪主は父季彦(すえひこ)氏。渡辺さんは1948年、七歳で初の演奏会を開き、「天才少年」と脚光を浴びた。来日したバイオリニストのハイフエッツに認められ、55年にニューヨークのジュリアード音学院に留学。最年少で奨学生に選ばれるなど、期待を集めた。しかし57年、睡眠薬を飲み過ぎて意識不明となり、脳に障害が残った。96年には渡辺さんの生涯をたどった伝記、留学前の演奏を集めたCDが発売されるなど、再評価の動きが続いていた。

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