モーツァルトの息子たち-カルル・トーマス・モーツァルト
モーツァルト夫妻は6人の子供を作りましたが、4人は生れてまもなく亡くなり、音楽家として後を継いだヴォルフガングと兄のカルルだけが生き残りました。この章では、モーツァルトのもう一人の息子、カルル・トーマス・モーツァルト((1784-1858)の生涯を紹介します。
商人になったカルル
カルルは第二子でした。第一子は産まれて9週間で亡くなっていますから、教育熱心な祖父のレオポルド(モーツァルトの父)は、元気なカルルを第2の天才アマデウスにと期待をかけます。そして自らバイオリンを教えようとザルツブルグからウィーンまで出かけていきますが、演奏旅行の多い息子夫妻は、幼い赤ん坊を連れてヨーロッパの各地を移動するため、レオポルドが教育する間もありませんでした。しかも、カルルが生れて1年半ほど経ったころレオポルドが亡くなり、結局天才を育てた祖父による音楽教育は受けらされませんでした。父のモーツァルトは自分の仕事が多忙のため息子の教育にかまっていられません。それどころか、保育所に預けて夫婦揃って演奏旅行に行く始末でした。その後第三子から五子までは幼くして死に、第六子のフランツが生れて、この間一家はバタバタします。(当時は医学事情により嬰児の生存率は極めて低かった)加えてウィーンの聴衆がモーツァルトの音楽から離れていったため経済的にも苦しい時期でした。そうこうするうちにモーツァルトは病死。カルルは祖父からも父からもろくな音楽教育を受けずに幼児期を過ごしました。母により7歳になって初めてプラハの音楽教師に預けられて、カルルの音楽家としての道は始まります。しかしながら、母コンスタンツェはカルルを音楽家にするつもりはなく、むしろ末っ子のフランツ(後にヴォルフガング・アマデウスと改名させる)に夢を託します。こうして不運なカルルは母といっしょに住むこともままならず、イタリアの英国人の貿易商の師弟として住み込みをさせられ、音楽学校も中退します。
音楽家を目指すカルル
20歳までカルル見習いとしては貿易商的な仕事をしていますが、突然モーツァルト家の血が騒ぎ出し、音楽の勉強を一から始めます。しかし、弟ヴォルフガングと比較されるのを嫌って、ウィーンではなくミラノで、しかも声楽から始めようとします。幸い亡き父と無二の友人であったハイドンは、ミラノの学校へ推薦状を書いてくれて、カルルはすんなり優秀な教師を得ることができました。音楽の勉強は順調に行き、才能を見込まれて父の友人からウィーンの劇場での仕事も紹介されますが、父の名声がかえって重荷になると考えたカルルはその申し出を断り、ミラノに残ります。しかし、24歳の時大病を患い、いろいろ悩んだ末、音楽家として活躍するには父と比べれば余りにも遅すぎると考えたのか、音楽家の収入が不安定なことを嫌ったのか、カルルは職業音楽家の道を断念します。
役人に転向したカルル
父の晩年の貧乏をかすかながら覚えているカルルは、安定している職業として公務員を最終的に選び、音楽は趣味として続けました。役人の仕事は彼の性格に適していたのか、彼の人生は極めて経済的に安定して充実したものでした。ミラノに尋ねてきた弟ヴォルフガングと久しぶりに再会したり、何十年ぶりかにザルツブルグの母を尋ねたりと、彼の役人となった後の人生は音楽家として父の影で苦しんでいる弟のヴォルフガングと比べればとても自由で快適なものでした。カルルは音楽を断念してつくづく良かったと思ったに違いありません。
子孫を残さなかった子供たち
カルルは30代の半ばに1度ある女性と恋愛関係になりました。しかし彼が選んだ女性は60歳近い婦人であり、結婚という対象ではなくむしろ精神的な結びつきが強かったようです。弟も53年の生涯を独身で過ごし、2人とも子供が無かったので、モーツァルトの家系は、彼らを最後に途だえてしまいます。
ミラノの名士となったカルル
カルルは仕事の傍らピアノのレッスンは欠かさず行っていたため、実力はかなりの域に達していました。晩年、ミラノでは名士となり、社交界で彼を知らない人はいないくらいに地元では顔が利くようになりました。加えてモーツァルトの息子であるという事実が、音楽家としてではなく、故人を愛する人たちから温かく迎え入れられました。父の生誕100年のおりにはザルツブルグで催された記念音楽祭に招待され、演奏会で父の作品を弾いています。カルルはモーツァルトの息子であると同時に、最後はミラノ人として生き、言葉も母国のドイツ語よりイタリア語に堪能していました。74歳で大往生したとき、彼の死を悼んでザルツブルグでは父の「レクイエム」が演奏されたと記録が残っています。