パリに生きた自称「フランス人作曲家」ドビュッシー
映画「ムーランルージュ」を観た方は、画家ロートレックまで登場させ、猥雑で喧騒に満ちた19世紀末のパリの街並みを再現した独特な映像美に魅了されたのではないでしょうか?クロード・ドビュッシー(1862〜1918)はそのような時代のパリに生きた自称「フランス人作曲家」です。後で詳しく紹介しますが、ワーグナーを痛烈に批判し、第1次世界大戦中、パリがドイツ軍に占領され、街が燃えている最中に病死しました。神経質で、既存の常識を覆す反骨精神に富み、皮肉屋である一方、娘を溺愛した良き父、ドビュッシーの一生と病歴を探ってみます。
音楽に縁がない家系から現われた天才
父親の仕事がうまくいかなかった関係で、ドビュッシーの子供時代は貧しく、食べるために親戚中をたらい回しにされました。幸い叔母の家に引き取られた6歳の頃、音楽的才能が見出され、美しい海岸のカンヌに移ってからピアノ教師に付くことが出来ました。また、叔母は多くの画家とも交流があり、ドビュッシーは幼年時に絵画にも興味を持ちました。音楽才能はぐんぐん伸びていき、9歳の時にはショパンの弟子であったマダム・モーテに本格的ピアノ教育を無償で受けます。家系的には農民か職人の一族に突然音楽の天才が現われたので、両親は名演奏家に育てお金を稼ぐことを夢見ました。この両親の“配慮”による特訓のおかげで、10歳にして名門パリ音楽院に入学を許可されるまで、彼の才能は短期間で開花します。22歳の時に応募した作品カンタータ「放蕩児」がローマ大賞を得て、ドビュッシーの作曲家の道は開けます。
ところで、ドビュッシーの若い頃の肖像画には、変わった髪形をしたお洒落で神経質そうな青年が描かれています。
前髪をおでこまで垂らして少しカールした髪型は、当時の流行というわけではなく、生まれつき骨がこぶのように飛び出した一種の骨腫を隠すためでした。では、このこぶが、音楽に縁がなかったドビュッシーの家系から、突如天才が出生したことと何か関係がないでしょうか?一般に左脳が発達している人は数学的、論理的で科学者タイプ、右脳型は直感的、感覚的な芸術家タイプと言われます。個人的な推測ですが、このこぶが右脳に何かしらの影響を与えていたと考えれば、彼が感性的にも性格的にも右脳型の人間であったことが理解できます。そして右脳が極度に発達したため、彼の音楽才能が幼児期より開花したのではないでしょうか?
印象派音楽と東洋の影響
当時ヨーロッパで絶大な影響力を誇っていた“楽劇”と呼ばれた総合舞台芸術は、観る人を高揚させるワーグナー至上主義(ワグネリアン)に支配され、ドビュッシーにとってあまりにもドイツ的でした。1894年に発表した管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』は、それまで踏襲され続けていた形式主義、調性、音階、和声などのあらゆる点において全く新しい手法が盛り込まれ、19世紀までの音楽様式から完全に分離しました。彼は反ワーグナーを実践する上で、フランス的な繊細さ、微妙なニュアンス表現、知的センス、ユーモアを音楽に醸し出し、ドイツの厳格さ、重厚さとは全く違った音楽表現を生んだのです。
ドビュッシーは、画家のマネやモネに代表される「印象派」というカテゴリーに分類される作曲家として一般に認識されています。実際に彼は様々な自然や珍しい物、文化を見聞きし、視覚的なイメージを音で表現しようとしました。例えば、1889年にパリ万国博覧会が開催されましたが、アジアからの音楽舞踊団(日本からは川上貞奴、音二郎一座が参加)にとても感動し、当時流行した浮世絵からもインスピレーションを得たようです。ドビュッシーの旋律の中に、日本の旋律の断片がのぞいたり、バリ島のガムラン音楽の影響が散見するのはそのためです。また、表紙に紹介している葛飾北斎の「冨嶽三十六景〜神奈川沖浪裏」は、1905年に初めて出版された管弦楽作品「海」の表紙に使われました。
性格と病歴
ドビュッシーは物心ついた時から気難しい性格でした。10代に学んだパリ音楽院でも、教授の指導に文句ばかり言い、授業では伝統を破壊するような言動や行動で担当教師を困らせています。
20代までは、金持ちの音楽家庭教師としてロシアを旅してムソルグスキーに会ったり、「ローマ大賞」の受賞でローマに留学するなど、金銭的には困らず、かなり自由に暮らしました。経済的にも自立しなければならない30代、一応名声も得て、作曲や評論家の仕事も入るようになり、有名なパリのカフェ「黒猫」で多くの芸術家と交流しましたが、生活の方は楽ではありませんでした。
40代、2番目の妻との間に愛娘シュウシュウ(キャベツちゃん)が生れた1905年に、腸の疾病が記録されています。
50代になり、既に体の変調を意識しているのにも関わらず、病気を恥と考えたドビュッシーは、病気を意図的に隠しつづけました。しかし、明らかに悪性腫瘍と判明した後は、当時の癌治療で一般的であったラジウム療法を受け、1915年には手術も受けていますが、一向に回復せず、また定期収入もないため、経済的にも貧困が増し、冬の暖房用石炭の購入さえ支障を来たします。既にフランスでは作曲家として名声は得ていましたが、特定の収入が約束される職にもあえて就かなかったつけがここに来て災いします。
手術から2年後、直腸癌によりやせ細り、痛みからモルヒネを手放せなくなったドビュッシーは、意識は空ろで常に悲観的でした。そして1918年の3月、希望もないままドイツ軍の砲撃を聞きながら静かに息を引き取ります。翌年には父の才能を引き継いだと言われた愛娘シュウシュウも、わずか14歳の短い命をジフテリアにより落としてしまい、ドビュッシー家の血筋は絶えてしまいます。弟子を持たなかったドビュッシーは音楽の上でも彼を引き継ぐものはいませんでしたが、その影響力は19世紀までの音楽様式を根本的に変えた革命的なものでした。