ベートーヴェンとワインと病気
ベートーヴェン(1770〜1827)の病歴に関して、彼の激情や短気が病気の症状の一部と見られる可能性が昔から指摘されています。以前、日本テレビの「特命リサーチ200X」という番組でベートーヴェンの死因を取り上げているのを、途中から見ましたが、そこでは意外な要因からの彼の感性的な腹痛を推理していました。番組では、ワインに含まれていた大量の鉛により中毒症を引き起こし、慢性的な腹痛、下痢、そして情緒不安定となる神経症状の原因となったと結論付けていたのです。では、今一度、ベートーヴェンの聴覚障害や彼を終生悩ました腹部の疾病の原因を探ってみまたいと思います。
ベートーヴェンの難聴と病気
聴覚障害には大きく「伝音性難聴」と「感音性難聴」があり、それぞれ聞こえ方が異なります。耳の中の三半規管までの音を伝達する部分(外耳・中耳)に障害があるのが伝音性難聴で、三半規管から先に障害があるのが感音性難聴です。伝音性の方が、聴覚のダメージが少なく、ベートーヴェンは耳硬化症という伝音性難聴だったと推測されるので、人の声は聞きづらくてもピアノの音なら振動で聞けたと思います。では、聴覚障害に陥った原因は何だったのでしょうか?これに「鉛中毒説」は無理があります。何故ならば、この中毒は難聴を引き起こす確率が極めて低いからです。もしそうならば、当時ワインを飲んでいた人は皆何かしらの聴覚障害に陥ったことになります。
ベートーヴェンの聴覚障害が始まったのが25歳の頃からですから、その頃煩った病気もしくは、先天的な病気によるものだと推測できます。 そこで、これまでいくつかの医学論文で取り上げられたのが、「梅毒説」です。現在はペニシリンという特効薬があるため、梅毒は早期発見すれば治療できますが、ペニシリンが発見される(1929年)以前は、不治の病でした。しかも直接死をもたらす病気ではなく、終生付き合う病気です。また、梅毒は、当時のヨーロッパで恥じるべき病気ではなく、男のダンディズムの象徴であると見なされた可能性があります。例えば、天才芸術家の宿命的な病とされたショパンの「結核」のような存在です。ベートーヴェンは死ぬまで、自分を長年悩ませた聴覚障害と慢性の下痢/腹痛の原因を解明しようと必死でした。しかし、何故か彼や周りの医師が梅毒であると認識していた痕跡が見られません。そのため、適切な治療を受けられず、聴覚障害が悪化した可能性があります。
ところで、聴覚障害は、神経梅毒の一症状で、その他にも精神錯乱や頭痛、記憶力の低下などの症状が表れます。これに伴い、怒りっぽい、忘れっぽい、猜疑心が強いなど、後年のベートーヴェンの性格と一致する点が多く見られます。また、梅毒はベートーヴェン以外にも多くの才人がかかった疾病ですが、中でもシューマン、ニーチェ、ボードレールが有名で、日本では芥川龍之介が知られています。彼らに共通するのは、“時に激情的”である点です。
鉛中毒説
次に、昨年テレビで放映された「鉛中毒説」を検証します。ピアノの教則本で有名な弟子のカール・ツェルニー(Carl
Czerny)が残している回想録には、時々起こる憂鬱な気分は生理的な面からくることが多いと記されています。通常彼は、短気、粗雑、気まぐれと言われる一方、非常に快活、ユーモア、いたずら好きな面もありました。また、一番弟子であったピアニストのリースの回想録にも、女性への関心が異常に強く、恋多き人であったと記されています。例えば、社交場で婦人を口説くために、リースにムード作りのピアノ演奏を何時間も続けさせたというエピソードがあります。しかも演奏が終わって「これはすべて僕の作品なんだ!」と言ったものの、見事に振られてしまったという“オチ”で終わっています。社交界好きなベートーヴェンがワインと美しい女性には目がないのは明らかです。また晩年、一度も結婚しなかった点をとても後悔していました。
さて、ワインの飲酒量ですが、アメリカのエネルギー省とイリノイ州の民間研究所との共同研究は、ベートーヴェンの毛髪8本をDNA鑑定したところ、通常の100倍近い鉛が検出されたと報告しました。これではワインの飲酒量まではわかりませんが、当時のワイン業者が鉛の化合物を甘味料として使ったので、100倍近い鉛が検出されるには、少なくとも1日3〜4本は飲んでいた勘定になります。それ以外にベートーヴェンは憂鬱な時や、体調が悪い時に、気を紛らわすために飲酒していますから、ワインの増加と体調の加減は悪循環していました。
ベートーヴェンの遺髪
「鉛中毒説」の根拠となったベートーヴェン毛髪の研究は、1994年、ベートーヴェン研究家アイラ・ブリリアント氏とアルフレッド・ゲバラ氏がロンドンのサザビーズで毛髪を落札したのが始まりです。その後DNA鑑定の末、彼の病気に関してさまざまなことが判明したのですが、この毛髪を巡る歴史的な展開は「ベートーヴェンの遺髪」(白水社)という本にまとめられています。2人が遺髪を落札して、鑑定を依頼する話とは別に、170年の間、遺髪がどういう経路を辿って競売に付されたのかを探っています。
かいつまんで紹介しますと、1827年、ベートーヴェンが他界した時、弔問に訪れた音楽家のフンメルと弟子のヒラーが、遺髪を切り取りロケットに収めたのが「運命」の始まりです。ヒラーが死の前に息子のパウルに譲り、1911年、パウルが形見のロケットを修理に出した後、遺髪は数奇な運命を辿っていきます。その後遺髪が確認されたのは、ナチのユダヤ人迫害が強まった時代、デンマークの港町ギレライエの町医師のところでした。ユダヤ人であったヒラー家とナチ時代の迫害、そしてデンマークへの移動と、ベートーヴェンの意思とは関係なく、遺髪は歴史の流れに翻弄されました。最後に、ベートーヴェンが生前弟子に託した中で、自分の病気の解明というのがありましたが、この遺髪のおかげで、少なくとも彼を終生悩ませた下痢や腹痛に関して大方の原因が解明されました。(nao)