何故か無名だった大作曲家バッハ

Johann Sebastian Bachバッハ復活

意外かもしれませんが、18世紀の宮廷音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハは死後約80年間、世間から忘れられていた作曲家でした。ビバルディーの名曲「四季」が、イ・ムジチ合奏団により再発見され、その後レコードを通して世界的に広く知れわたったのと同様に、バッハは19世紀の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンにより復活しました。彼の努力によりバッハの名曲が公開で演奏されるようになり、現在にいたる名声が確立されたのです。では、少し復活されるまでの過程を追ってみます。そこには現代に通じる運命的なドラマが隠されています。

神童メンデルスゾーンの慧眼

10代のメンデルズゾーン音楽だけではなく、絵画、哲学にも深い才能と知識を持っていた若干12歳のメンデルスゾーンは、ゲーテを訪れた時、すでに深く魅かれていたバッハのグラヴィア曲を彼に弾いて聞かせています。当時ほとんど無名に近かったバッハの音楽は写譜されて残っていた譜面を中心に一部の音楽家などにより、愛好されていました。メンデルスゾーンは子供のころからほとんど知られていないバッハを理解していたというわけです。早熟なメンデルスゾーンは、14歳の時、クリスマス・プレゼントとして「マタイ受難曲」の写譜を贈られたのをきっかけに熱心にバッハを研究するようになりました。この難曲として名高い宗教曲「マタイ受難曲」は、演奏の困難さと演奏規模の大きさもあって、当時どの教会でも演奏されることはありませんでした。バッハの音楽にすっかり惚れ込んだメンデルスゾーンは、バッハの音楽が世間で見直されることを強く期待するようになり、様々な方策を考えます。やはり、世間に認知されるには作品の公開演奏が一番という結論に達し、バッハ復活演奏会を計画します。実際、演奏にはコーラスの参加が必要なため、ベルリン合唱教会会長ツェルニーに協力の要請をしますが、演奏の難解さを理由にあっさり断わられます。何度の交渉でもなかなか首を縦に振らないツェルニーに嫌気をさして、諦めかけていたメンデルスゾーンでしたが、友人の支援もあり、最終的には同意を得るに至りました。しかし、演奏をするまでは当時の聴衆に100年前の難解なバッハの音楽が理解されるかはまったく未知数で、メンデルスゾーンにとっては大きな賭けでした。


「マタイ受難曲」時代にあったアレンジ


1829年3月11日、ベルリン合唱教会大ホールで、メンデルスゾーン指揮による歴史的な再演が行われました。メンデルスゾーンの心配をよそに、「マタイ受難曲」は新聞による前宣伝もあって、会場は1000人もの聴衆が入り切れず、また演奏後の人気も手伝い、その後2度も再演するほどの成功に終わりました。この成功の陰には、単に原曲の素晴しさだけではなく、当時の時代にあったメンデルスゾーンの編曲能力に負うものが少なくありません。彼は冗長気味であったもとのスコアを、演奏の劇的効果を高めるため、大胆にもアリアやコラールの削除、全体の楽章の短縮を行い、見事に蘇らせたのです。本来、オリジナリティを重んじる神聖な宗教曲に、20歳のメンデルスゾーンが自分の才能を信じて、時代にあったアレンジを施した勇気は賞賛に値します。

口コミ効果


もうひとつ、バッハが急速に世間に認知されたのは、演奏会に参加した知識人の口コミに因るところが大きいと言えます。哲学者、神学者、詩人など当時の知識人はこぞって、世紀の演奏会を聴きにいきました。彼等は、後に演奏会の印象を様々なところで語り、または文章にして、広報活動の一旦を担いました。その結果、バッハは知識人にとっての教養音楽という印象、または当時人気の高かったラテン系ロッシーニ音楽への反感もあって、民族的ロマン主義運動の一面も持つようになりました。 バッハのサイン

ゲーテとバッハ


ゲーテがモーツァルトの音楽に傾倒していたのは良く知られていますが、バッハの音楽を敬愛していたことはあまり知られていません。彼は好んでモーツァルトをピアノで弾きましたが、技術的に難しいバッハは演奏家を自宅に呼んで聴いていました。ツェルニーから「マタイ受難曲」再演の感想を手紙でもらうと、返信のなかで、「わたしには、遠くからまるで大海が怒号しているように聞こえた」と、彼が受けた印象を語っています。不思議なことにベートーヴェンもバッハの音楽を比喩して、「バッハ(ドイツ語で小川を意味する)ではなく、メーア(大海)と称すべきだ」と語っています。

バッハ協会の設立
ロベルト・シューマン

メンデルスゾーンから始まったバッハ復活運動は、「マタイ受難曲」再演から21年が経ったバッハの死後100年にあたる1850年に、当時バッハ復活運動を進めていた音楽家や崇拝者が中心となって、ライプチッヒ市にバッハ協会設立いう成果として実りました。特に当時、「音楽新誌」とい雑誌で編集、執筆にあたっていた作曲家シューマンは誌面を通して、バッハ協会の必要性を説き、多くの音楽家の賛同と理解を得ました。しかし、本格的にバッハの音楽が一般社会に知れわたるまでにはもう少し時間がかかりました。それは彼の残した膨大な作品を網羅する「バッハ全集」が世に出てから初めてスタートを切ったとも言えます。シューマンやリストなどの24人の発起人が、たとえ音楽的には反目しあっても、ことバッハになるとお互いに協力しあって、バッハ全集の発刊に努めました。最初にシューマンが提案して13年目にしてこの大作は世に出て、以降バッハはヨーロッパ中に知られる大作曲家として名を残すようになりました。

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